そしてやっぱり語りかけ

 隣には中学三年生、目の前には黒板、手元には指導書とボードマーカー。なんということなく私は働いている。昔から人に教えるのは好きだったが、これでお金が稼げるというのはなんとも不思議な感覚になる。
 ふと、自分のペンケースに目がいった。隣にいる子と同じぐらいから使っているお気に入り。もうブランドはつぶれたとかなんとか。そのくすんだ色になったペンケースの中に一枚の紙が入っていた。私はそのたたみ方と汚れた色からすぐにそれが何であるかわかったが、問題はそれがいつのものであるかということだった。最近も使っていたのに入れっぱなしになっていたんだなぁと、自分の無頓着さに呆れるしかなかった。吸い寄せられるような無意識で私はその紙を取った。一連のことは15秒くらいだったと思う。

 「よう、元気にしてたか?」

 つつつとその紙を開いて文字を見ていると話しかけられた。

 「なんとかやってるよ」

 私はそう答えるしかなかった。
 国語、現代文、古文、漢文、数IA、数IIB、英語、生物基礎、地学基礎、日本史、倫政。あぁ、こいつは半年前の私だ。半年前の私がまだ、このペンケースに居座っていたのだ。

 「人様に教えてるのか」

 彼は言う。

 「そうだよ、あんたがずっとやりたがってたんだろ」

 「じゃあ、俺の未来はとりあえず安泰ってことか」

 「まあな、死んではいないよ」

 彼は少し安堵したが、強張った肩の力は抜ける気配がなかった。

 「・・・どこに行ったんだ?」

 「どこにって何が」

 「大学だよ、バイトしてるってことはなれたんだろ?大学生。まさか浪人生の分際でやってるわけじゃないよな」

 要するに彼は焦っていたのだ。

 「大学か。・・・それは・・・言えん」

 「言えねぇのかよ」

 「そりゃそうだろ、ここで聞いたらつまらないとは思わないのかよ」

 「確かにそうだけど」

 私は彼がなぜ焦っているかを知っていた。だからわざと訊くのだった。

 「どう?調子は」

 「お前、ふざけてんのか。どうもこうもねーよ。どうすりゃいいんだ。見てくれこの悲惨な結果」

 「知ってるよ」

 「模試で一度だって負けたことのない奴にも負けたんだぞ」

 「知ってるよ、Kだろ」

 「そうだよ、あいつに地学なんか教えるんじゃなかったよ」

 「そんなこと言うなよ」

 彼の言う通り、その数字はあまりにも悲惨だった。「模試の方が難しいから」「本番点数上がるから」、と言われ続けていたのに、模試よりも過去問よりも低い点数を出し、そこにはもう止めることのできない純粋なエネルギーだけが残っていた。

 「おいおい、教えてくれよ。どれが最善の未来なんだよ。俺は受かるか死ぬかの二択なんだぞ。どうすんだ死んだら」

 彼は語気を強める。

 「死んだらどうやって聞くんだよ」

 「そんなことわかってるよ、どっかには受かるんだろ?」

 私は少し頷くそぶりを見せて、それとなく不安にさせた。

 「もう、今更変えられない気がしてるんだ。自分に選択肢があるような気がしているけど、実質一択なんじゃないか」

 「なんでそう思うんだよ」

 「だってここまで来て引き下がれないだろ」

 本当に引き下がれなかったのか、それは私にもわからなかった。選択というのは実に不思議なもので複数の択から自分の答を選んだ後は、他の択がはずれだったのか、そもそも択があったのか、確かめる方法がないのだ。とすると、人から命令されるのと、四択問題を解くのは結果において大した差にはならないのではないだろうか。選べるという錯覚の中で、彼は悩んで死にかけていたのだ。

 「どうせ挑むんだろ?」

 私はまた彼に意地の悪い質問をした。

 「挑むって言い方やめろよ、まるで負け戦じゃないか」

 「そうだよ、負け戦だよ」

 「負けはやだよ」

 「私だって負けは嫌だよ」

 「じゃあ、俺が変えればいいのか」

 「まぁそうだな」

 「なんでそんなホイホイ答えるんだよ、未来のこと教えていいのかよ」

 「ダメだよ。だから肝心なことは言わないよ。でもさ、どうせ何大学か教えたところで、変えるのか?どんなルートを選んだか教えたら変えるのか?どれくらい勉強すればいいか教えたら変えるのか?」

 「それは・・・聞かないとわからない」

 「いいや、わかるね。ここで何を教えたって、あんたのこの先の行動は変わらないよ。そんなこと自分自身が許さないだろうね」

 「何言ってんだお前」

 「お前の話だよ。負け戦?勝ち負けになんかこだわってないだろ。死んでも行くしかないんだよ。というか行けないなら死ね」

 「最低だな」

 「あーあ、負けるなら行かなきゃいいのになんで行っちゃうかなぁ」

 「やっぱり、俺は負けるのか?」

 「負けるって教えたら諦めるのかよ」

 「それは・・・負けるまでわからない」

 「じゃあ、負ければ?勝てるかもしれない、負けたって死ぬだけだよ」

 「確かに、死ぬだけか。大したことないかもな」

 「そうだよ、頑張れよ」

 「死ね、クズ」

 私が慰めの言葉をかけると彼は捨て台詞を吐いて帰っていった。問題を解き終わった子が丸つけをしている。横目で見てその答えを確認するのはクセになっていた。

 斜め後ろを見る。一人の男がいた。彼は生徒に問題を解かせている間、本を読んでいた。信じられるだろうか。勤務中にその態度とは残念な奴だと思うしかなかった。だから塾は嫌いなのだ。そうしていると彼が携帯を取り出す。これも言語道断だ。不意に見えたスマホケースのポケットには一番欲しかった学生証が見えた。

 

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